努力をするということについて。

ものすごく努力を重ねて、自分の夢を実現する人。 かたや、一見努力をしている様子が見えないが、いつのまにかしれっと夢を実現する人。 いろいろなタイプがいるように感じるのは、努力をすると言うことに対して、私たちの定義やイメージが固定されているから。 努力を努力と思わずにできることこそ自分の真価を発揮できること。そんな風に思っていたことがあったけど、ふと、「努力をする」にどんな定義をしているのか、立ち止まってみたくなった。
 
一つ言えるのは、そこに起きている事実は、その人が何かを成し遂げた、ある成果を出した、と言うこと。
言い換えれば、ゴールまで走った、たどり着いた、と言うこと。
そうなると、努力って一体なんだろう? ゴールを達成するのに必ずしも必要なものなのだろうか?
 
努力とは一体何なのか。
 
それは目標を達成するための継続的な行動なのかもしれないし、あるいは精神的な挑戦なのかもしれない。でも、私たちが一般的に想像する「努力」は、汗水垂らして時間をかけて、目標に向かって走り続けることだろう。
 
そうした昔ながらの努力の定義を見直す時がきているのかもしれない。
なぜなら、私たちが見てきた成功者たちは、汗水流して見える努力をしている人もいれば、それがほとんど見えない人もいる。それは、努力は常に目に見える形で存在するものではなく、時には背景に隠れていることもあるからだ。
 
そして、努力は必ずしも目標達成に必要なものとは限らない。なぜなら、努力とはただただ苦痛を伴う作業を繰り返すことではなく、それぞれの人が自分の目標を達成するために適した行動や取り組みを見つけ出し、それを続けることであるとも言えるからだ。
 
もし努力とはそういうものなら、それは個々の目標や人生にとって、真に価値あるものであることは間違いない。
だからこそ、「努力をする」とは自分自身の「真価を問う旅」なのかもしれない。